平和町と桜との出会い
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川の町、平和町。
平成17年の市町合併で、稲沢市平和町となった旧中島郡平和町。この地域を囲むように、日光川、三宅川、領内川の三川が流れ、川は人々の暮らしと密接にかかわってきました。
農業との結びつきは特に強く、「水を治め、水を利する」ことが、地域の歴史として語り継がれ、川は人々の生活の一部として溶け込んでいました。

水辺には桜を
戦後、生活様式の変化によってしだいに川の水は汚れ、人々の意識も川から離れがちになって行きます。
「それではいけない」と、住民らは自らの手で三宅川の左岸堤に3キロに渡って桜を植樹し、川を再び身近な存在にしようとしました。昭和30年代半ばのことです。昭和42年、順調に育つ三宅川の桜に意を強くした人々は、さらに日光川にも桜の植樹を行いました。
実は他にも、平和町には桜との縁がありました。町の北部、鷲尾地区は、大正のころから桜苗木の生産が盛んで、技術的なレベルも高く、「桜苗木のことなら、鷲尾の苗木組合!」といわれるほどでした。桜のふるさとが、実に身近にあったわけです。

昭和45年ごろの三宅川

ふるさとの光景…桜のある河岸。
毛織物業が盛んだった昭和45年、新たな住民活動として「桜まつり」が開催されます。
川面にぼんぼりが映え、人が集い、ミスさくらコンテストやパレード、写真コンテストなどで盛り上がりました。
しかし、この桜まつりも昭和48年のオイルショック不況によって4回で中止。それでも、川と桜の風景は、人々の心にしっかりと定着していきます。

ミスさくらコンテスト

ミスさくらのオープンカーパレード

台風19号襲来、そして桜伐採。
昭和51年9月、記録的な猛威をふるった台風19号は、海抜ゼロメートル地帯を多くもつ町域も襲い、町の3割が冠水、農地を含めた被害総額が約7億円という大被害をもたらしました。
この台風で河川は増水し、堤防は決壊寸前となりました。このときの不安から、防災対策が優先され、翌昭和52年にかけて、三宅川の桜はすべて伐採されました。また、日光川の桜も、改修工事にあわせて順次切られ、昭和60年代には、わずか七十数本を残すばかりとなったのです。

ふたたび「さくらのまち平和」へ…植栽はじまる。
その後、町の防災対策は目覚しく充実。安全面では申し分のない河川堤防となりました。
しかし、コンクリートや鋼矢板でかためられた堤防の無味乾燥な風景に、人々は失ったものの大きさに気づき始めます。そんな中、人々から自然に盛り上がってきたのは、「さくらのまち平和」の復活でした。
時はまさに、地域がふるさとの価値観を求めて模索を始めたころ。行政と住民が一体となり、未来へ向かって、桜を活かした新たなまちづくりという夢を実らせようとしたのです。

老人クラブによる植栽